HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲1 Herz

4 拐われた少女


「違います」
ハンスは毅然として言った。
「いや、そんな筈はない。私にはわかる。あなたは死んでいなかった。今、こうして私の目の前にいるんですから……」
教授は感涙に噎せていた。
「ああ、本当によかった。お会いできて本当にうれしいのです。まさかこんな場所で……」
男はハンスの手を取ると強く握った。
「私のこと覚えていらっしゃいませんか?」
彼は目を伏せて頷く。

「無理ありません。たった一度、ほんの数分お会いしただけなのですから……あなたはその時ショパンのエチュード9番とノクターン8番を弾いてくださいました。今も夢に見るのです。あの奇跡の音を……」
「すみません。僕はもう行かなくちゃ……」
「ああ、申し訳ありませんでした。お引き止めして……。私は黒木良男と申します。今はまだ薬島音大におります。どうかお見知りおきを……」
その熱心さにハンスは困惑していた。
「違うって言ってるのに……」
「ハンス!」
女性の声が彼を呼んだ。美樹の母だ。近くには、父とルドルフもいた。
「ああ、今行きます」
ハンスはそちらに向けて手を振るともう一度黒木の方を見て言った。
「聞こえたでしょう? 僕の名前はハンス・D・バウアーです。あなたが言っている人とは全然違う」
そう言うと彼は背中を向けた。
「そんな……。信じられない。私の目に、いや、耳に狂いはない筈だ」
黒木は諦めきれず、彼の後を追った。

「美樹ちゃん!」
少し遅れて彼女も来た。ハンスは喜んで彼女に抱きついた。
「ついさっき書き終わったの。もうその原稿も送っちゃったからようやくフリーよ」
彼女もうれしそうだった。
「お母さんに聞いたんだけど、あなたピアノを弾いたんですって? わたしも聴きたかったな」
「そう。でも大したことないです。君に聞かせるようなものでは……」
ハンスは口の中でぶつぶつと言った。

「あ、眉村さん。やはりそうだったんですね?」
背後で声が響いた。さっきからハンスを追って来た黒木だ。
「どこまで僕に付いて来るつもりですか?」
ハンスが振り向いて問う。
「どこまでって……。私はあなたのファンなんです。できることならどこまでも付いて行きたいですよ」
「確か黒木さんでしたよね? 音大の……」
美樹が言った。
「ええ。その通りです。偶然お会いしましてね。いや、懐かしい。たった一年が永遠にも思えましたよ。絶望のどん底にありましてはね。でも、今は胸を撫で下ろしているのです。神は見放してはいなかった」

「オーバーですね」
ハンスが言った。
「いや、決してオーバーなんかではありません。私にとっては……」
黒木は真剣に言った。
「今度ぜひ、連絡先をお教えください」
「今は彼、わたしの家にいるんです」
美樹が言った。
「ああ、そうでしたか。それで、日本にはいつまで滞在なさっているのですか?」
「それはまだ未定なんですけど……」
美樹はちらとハンスを見て言った。
「未定って何ですか?」
ハンスが訊いた。
「この場合は、いつ帰るのかは決めてない。つまり、わからないってこと」
美樹の言葉にハンスは反論する。

「帰る? 僕は君と結婚するって言ったですよ。ずっと君の家にいます」
それを訊いた黒木の顔が綻ぶ。
「Wunderbar(素晴らしい)! おめでとうございます。ならば、私からもぜひ、お祝いの品をお届けしませんと……」
「いえ、それはまだ……。はっきりとは決まっていないんです」
慌てて美樹が否定した。
「そうですか。では、日取りなどが決まりましたら、ぜひご連絡ください」
黒木はそう言って名刺を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
美樹はそれを受け取るとポシェットの中の名刺入れに入れた。
「これ、わたしの連絡先です。よろしかったらどうぞ」
彼女も自分の名刺を差し出した。黒木は深く頭を下げるとそれを大事そうにスーツの内ポケットにしまった。

「何だ、顔見知りなら、一緒に飲んで行きませんか?」
それまで黙っていた父親が声を掛けた。
「ありがとうございます。しかし、私のような者がお邪魔してしまって、本当によろしいのでしょうか?」
丁寧な口調で黒木が尋ねる。
「ああ、別に構わんだろう。さあ、遠慮はいらん。そっちのテーブルに行こうか」
父は黒木を伴って奥の席へ向かった。

「何だかいけないことになっちゃったみたいだな」
ハンスは兄に目配せした。
「まさか、こんなところで会うなんて……」
ハンスは渋い顔をした。が、ルドルフはそんな弟を促して言った。
「あれはただのピアニストだ。問題ないだろう」
淡い照明のくすんだ光を見つめながらハンスが呟く。
「ピアニスト……。だから問題なんだ」
「大丈夫よ。さあ、行こう?」
美樹が微笑み掛けて来たので、彼も気を取り直してそちらへ向かった。

父はアルコールを飲まなかったが、話題は豊富で客を退屈させることはなかった。しかも黒木は留学経験もあり、ドイツ語が堪能だったのでルドルフとのコミュニケーションもスムーズになった。
「ところでバウアー先生」
黒木はハンスのことをそう呼んだ。
「ハンスでいいですよ。そんな呼ばれ方慣れないから自分じゃないような気がする」
彼が言った。
「では、ハンス先生、こちらでのコンサートの予定はないのですか?」
「ありません」
彼は素っ気なく言ってグラスを傾けた。

「Schade(残念). そうですか。それは実に残念です。こちらでの生活が落ち着きましたらぜひ聴かせていただければと思います」
黒木は熱心に誘った。
「そうだ。うちの音大で、時々海外の演奏者を招いて特別講義を行っているのですが、どうでしょう? 今度、ハンス先生にもうちの学生の技術指導をお願いできませんでしょうか?」
「技術指導……?」
「ピアノを教えていただきたいのです」
しかし、ハンスは首を横に振った。

「ほう。音大で教えられるほどの腕を持っているなんてすごいじゃないか」
父が感心する。
「そうよ。彼はピアニストなんですもの」
美樹も言葉を添える。少しでも彼の印象をよくしておきたいと願う彼女にとっては好都合な話だった。
「そうね。ほんとに上手だったのよ。お客さん達もみんな絶賛していたの」
彼の演奏を目の当たりにした母も褒めた。
「そうだな。手に職があるのはいいことだ」
父も満足したようだ。が、ハンスだけが納得していなかった。

「困ります。僕、できません。人に教えたことなんかないし……」
「何だ? 自信がないのか?」
父が言った。
「大丈夫よ。最初は誰だって初めてなんだから……」
母が励ます。
「そういうことじゃなくて……」
兄を見たが、彼は黙って煙草を吹かしている。

「すぐという訳じゃありません。いろいろ手続きもありますし、大学側の方針もありますので、もしそういう機会があった時にはよろしくお願いします」
黒木はそう言って話を締めくくった。
「では、私はそろそろ失礼致しませんと……」
黒木が席を立った。
「そうですか。では、我々も部屋に戻りますので、一緒に参りましょう」
父はさっとボーイを呼んで会計を済ませた。黒木は自分が払うと言ったが、父は聞かなかった。
「では、今回は御馳走になります。今夜は実に有意義で楽しい時間を過ごさせていただきました。本当にありがとうございます」
「こちらこそ助かりました」
ルドルフも感謝の言葉を伝え、黒木と握手した。
「では、ハンス先生、また後ほどお目にかかりましょう。皆さんもどうぞお気をつけて。Gute Reise!(よい旅を)」
「黒木さんも……」
皆が互いに挨拶して、その場を離れた。

「何がハンス先生だ。わざとらしくドイツ語なんて使っちゃってさ」
彼は一人離れた壁際で呟いた。
「何をしている? みんな、もう行ってしまったぞ」
兄がさり気なく声を掛けた。
「だって、まずいよ」
彼は虚ろな表情でルドルフを見た。
「黒木か?」
彼が頷く。
「特に問題はないだろう」
「あの人は昔の僕を知ってるんだ」

「だが、あの男の関心はピアノだ」
「そうだけど……。彼は僕にピアノを弾けと言って来るかもしれない」
「さっきも弾いていたんだろう?」
「弾いたよ。でも、黒木さんが望んでいるのはもっと……」
苦渋するハンスの肩に手を置いて兄は言った。
「おまえの腕は落ちていないさ」
「そんな慰めが何になる? 自分のことは僕が一番よく知っている! 僕は駄目だ! 僕はもう前のようには弾けない……! 僕は……」

その時、遅れている二人を心配して戻って来た美樹が声を掛けた。
「どうしたの? 部屋に戻ったら一緒にお風呂に行こうってお父さんが……」
「お風呂?」
ハンスが顔を上げた。
「そうよ。大浴場の温泉があるの。もちろんわたしはお母さんと行くけど……」
「一緒に入るですか?」
ハンスが訊いた。
「男同士、裸の付き合いで行こうってお父さんが……」
「……いやだ!」
そう言うとハンスはその場から駆け出した。
「ハンス!」
美樹があとを追った。ルドルフはそのまま部屋に戻ると両親に告げた。
「二人は少し遅くなります」

ハンスは折れ曲がった廊下を走って非常階段の脇まで来ていた。そこは少し広くなっていて、向かいには従業員専用のエレベーターやリネン室などがあった。階段へ続く扉は閉ざされていた。その横には緑色のランプが灯り、横には赤い消火器や非常ベルも備えつけられている。照明は暗く、床に絨毯も敷かれていない。
「ここはホテルの裏口なんだ」
ハンスはそう呟くと薄暗い照明の下にくすぶる影を見つめた。何処からか吹き込んで来る風が冷たい。彼はふと背後に気配を感じて振り向いた。小さな子どもの影が一瞬だけ視界に過ったような気がした。ハンスは急いで引き返すと通路を見たが、子どもの姿はどこにもなかった。
「Geist(幽霊)?」
彼は絨毯のある廊下まで戻ってみたが、やはりそこには誰もいなかった。代わりに美樹がこちらに向かって来るのが見えた。

「美樹ちゃん……」
「まだ、傷跡のことを気にしているのね……」
彼は壁にもたれて宙を見つめた。
「傷はどこにだってある。医者や悪者や仲間達のせいで……」
言うとハンスはその手を胸に当てた。
「大丈夫よ。温泉にはいろいろな効果があるのよ。だから、いろんな人が来てるし……。傷にだっていいと思うわ。でも、どうしてもいやなら、お部屋に内風呂もあるから、それを使えばいいわ」
「内風呂? でも、お父さんが……」
「無理強いはしないと思うよ」
「でも……」
彼は黙って俯いた。彼女の背後には斜めに射し込む緑の光が反射している。

「僕、座敷童子を見ましたよ」
「ほんとに?」
美樹がその瞳を見つめる。
「はい。ここの廊下をね、すーっと向こうの方へ行きました」
「それじゃあ、きっとラッキーなことがあるのよ」
そう言うと、彼女はハンスの手に触れた。
「今すぐ君と結婚できるとか?」
彼が言った。
「それは……」
答えるにはまだ確信が持てなかった。

「でも、黒木さんに会ったでしょう? それってすごい確率じゃない?」
「あれは……最悪でした」
表情が曇った。
「どうして?」
「僕を過去に連れ戻そうとするから……」
風に乗って仄かな石鹸のにおいが漂っていた。
「過去を……忘れたいの?」
「それができたら、どんなに素敵でしょうね」
諦めたようにハンスが言い、それから二人はじっと互いの目を見つめ合った。

「忘れたいのに……忘れられない。幸せだと思った瞬間、それはいつも僕の手から滑り落ちてしまう。そんなのはもういやだからここに来たのに……。いやなことばかり思い出す。座敷童子だって……! きっといやなことがあったから、過去から逃げて来たんだ」
「ハンス……」
「そんな風に触れられない過去が僕をいつも傷付ける……」
顔を歪める彼に美樹はやさしく言った。
「そうしたら、わたしがその傷を塞いであげる」
「えっ?」
窓の向こうで車のライトが反射して、一瞬だけ彼女を照らした。
「美樹ちゃん……」
「何度でも……。その傷をわたしが塞いであげるから……」
ハンスは彼女を抱きしめると、その唇にキスをした。
「僕も……。約束するよ。もしも君が誰かに傷付けられたなら、僕がその傷を塞いであげる」
「……でも、もしもそれが致命傷だったら?」
光が消え、再び窓には暗い夜の暗幕が降ろされた。
「僕の心臓をあげる」

その時、ふいに子どもの泣き声が響いた。
「さっき僕が見た座敷童子かもしれません」
「まさか」
二人は折れた通路の方へと急いだ。手前にあるのは遊戯室。ビリヤードや卓球台、ゲーム機が七つ。それにジュースの自動販売機が2台並んでいたが、そこに人の姿はない。
「おかしいな。確かにこっちから聞こえたと思ったのに……」
ハンスが耳を澄ます。
「エレベーターホールの方じゃない?」
美樹が言った。
「そうですね。行ってみましょう」

彼らはさらにその先の廊下を右に曲がった。と同時にハンスが足を止め、彼女の耳に囁いた。
「君はこのまま部屋に戻ってルドルフに伝えてください」
「伝えるって、あなたは?」
「誘拐犯を追います」
「誘拐?」
「僕らはしてやられました。さっき、そこから奥の通路へ駆けて行くのが見えました」
「でも……」
「行って!」
彼女の背中をそっと押すと自分は今来た通路を駆け出した。意を察して、彼女もすぐにエレベーターホールへ向かった。

その男は子どもの口を塞ぎ、入口から見えない場所に隠れていた。恐らく人目につかないよう、従業員用の通路へ逃げ込むつもりなのだ。
「あの子どもは幽霊なんかじゃない」
視界の片隅に捉えた影。それは確かに人間だった。黒い服装の男とその手に抱えられた少女。声が漏れないように口に布を押し当てられていた。まかり間違えば窒息してしまう。ハンスは焦った。そうやって理不尽に囚われ、死んでいった子どもが座敷童子になるのではないかと彼は思った。
「女の子……」
彼が呟く。
「その子が死んだのは何故? 悪い大人に殺されたから……」
そこに恨みはないのだろうか。無念や悔しさはないのか。そして、悲しみは……。
「僕が死んだのは何故?」
彼は自分の首に両手を当てた。
「悪い僕を殺すため……」
その子を見ると幸せになれると美樹は言った。しかし、本当に幸せになりたかったのは霊になってしまった座敷童子そのものではないのか。だからこそ、そこに姿を現すのではないか。

「独りぼっちなんだね。奏でるものも抱いてくれるものもいない……」
闇の心臓が激しく鳴った。
「殺させない!」
彼は自分の手のひらを見た。そこには子どもの心臓が一つ。トクントクンと脈打っている。
「もう、誰にも僕を、そして君を殺させないんだ」
照明が瞬いている。手の中の心臓は形を変えて風に溶けた。
「もう、誰にも……」
窓に映るのは夜の帳。
彼は光を脱ぎ捨てて、歪んだ夜の闇を羽織った。

そこに駆け付けた時、既に男の影はなかった。しかし、エレベーターが動いている。表示を見ると、それは下へと向かっていた。ハンスは非常階段の扉を開け、一気に地階へと駆け降りた。

そこは荷物などを搬入するための駐車場になっていた。埃っぽい空気に少しだけガソリンのにおいが混じっている。部屋の隅には乱雑に置かれた工具が不気味な影を落としていた。高い窓には鎧戸が掛けられ、天井に設えられた大きな換気扇が唸りを上げている。一般車両の出入りはないので今はがらんとしていた。申し訳程度の明かりが幾つか灯っていたが、そこは夜の闇にも近かった。
「こわい……」
抱えられた子どもが怯えたように小さな声で言った。
「静かにしろ!」
男の声が空間に広がる。壁の外からはエンジンの音が聞こえていた。外へ通じる扉は対角線上にあった。男はそこを目指している。外には仲間が待っているのだろう。男は一通り周囲に目をやると急ぎ足で目標を目指した。

「どこに行くの?」
ふいに暗闇から声がした。抱えている子どもの声ではない。
「ねえ、どこに行くの?」
もう一度声がした。その囁きが空間の中で響く。男は足を止め、注意深く周囲を見回した。が、そこに人影はない。
「何者だ!」
闇に向かって男が叫ぶ。
「その子、僕にちょうだい」
ふいに暗闇から手が伸びて子どもに触れた。
「きゃっ!」
子どもが悲鳴を上げて顔を伏せる。が、その手はやさしく頭や背中を何度も撫でた。
「君のことが好きだよ。だから、怖がらないで」
耳元で囁く。女の子は恐る恐る首を上げて訊いた。
「だれ?」
「ハンスだよ」
闇に白い顔が現れ、淡い光に照らされて、その輪郭が浮かび上がった。